美術館や博物館の理想の姿とはどんなものだろうか。最近、考えることが多くなった。
来訪者には、たまたま時間があっただけで、まったくの興味のない人もいる。
展示作品の作者だけは知っているけど、何を見ればいいか分からないという人もいる。
そうかと思えば、学芸員と同等レベルの知識を持った強者もいる。ごちゃ混ぜだ。
来訪者の数を求めるなら、前提の異なるすべて人に、一定の満足をしてもらう仕掛けがいる。
作品の基本的なファクト、時代背景、作者の意図、技法、後世への波及効果、作品の価値。
つまり、初心者に合わせた展示も必要だし、経験者や熟練者向けの展示も必要だ。
そして、それらがぶつかり合うことなく、共存できる仕掛けを考えなくてはならない。
幸いにも、最近では技術の発展により、様々な方式で情報を伝達することができる。
作品脇のキャプション、動画解説、解説記事へのQRコードリンク、ARによる補完情報等だ。
上手く組み合わせれば、それぞれの人への満足を毀損しない形で、みんなの満足を共存させられる。
でも、ここで悩みが生まれる。ファクトや定説を伝えるのが本当に正しいのだろうか。
それぞれの人のニーズに合ったものを伝える。大事だが、かなり一方通行な感じがしてならない。
どうしたら、作品や美術館との対話が生まれるのだろうか。理解を超えて創造につながるのだろうか。
美術館では、タイトルしかキャプションがない展示もある。とてもシンプルで静かに鑑賞する。
そんな時、これまでの人生のシーンの何かが浮かんできたり、ふと物思いに耽けるタイミングがある。
その作品がきっかけで、頭の中に何かが想起される瞬間だ。こんな演出をするのも大事な気がする。
展示空間が来訪者の中に新たな感覚が生まれるのを後押しする。でも何が生まれるかは分からない。
京都に「何必館」という美術館がある。「何ぞ必ずしも」とは、定説を疑う自由な精神だという。
定説を伝え文化の間口を広げる役割。定説を疑う自由な精神を広める役割。文化施設の役割は2つある。