整えると整う

2つの言葉の意味は少し違う。昨日はそんな違いを意識する日だった。
共に、必要なものがすべてそろうとか、全体がよくまとまるといった意味だ。
ただ、整えるは、「そうした状態にもっていく、そうした状態を用意する」という感じだ。
極端に言えば、「誰かが誰かのためにしてあげる」という感覚かもしれない。

一方、整うは、「そうした状態になったことを自らが感じている」といった感じだ。
あくまでも自分が主語であり、誰がどう整えようとしても、感じなければ整わない。
整えるは、お膳立てという言葉に似ている。整うは実感するに近いだろうか。
もちろん、自分が整うために、自分で整えることもある。整うために、整えるだ。

ほとんど言葉遊びな感じになってきたが、文化を考えるとこの2つの違いを意識する。
人々が文化を育むようにお膳立てをする、整える。何かが違う感じがするからだ。
一方、人々が文化を育む状態に整った。こちらはしっくりくる。文化が盛り上がる気がする。
お膳立てではなく、触れているうちに興味が生まれ、引き込まれ、自らが動く。

文化では「整う」をどうたくさんの人々が感じているかが大事なのだと思う。
とはいえ、お膳立てが全くなくて良いという訳ではない。周りが整えることもあるべきだ。
ただ、整えるが前面に出過ぎず、それぞれの人の自発的な「整う」を誘うバランスがいるのだろう。
ある世界観の上に、それぞれの人がそれぞれの余白を感じて、創意工夫が始まる感じだろうか。

完璧な世界観を演出して、非日常を堪能してもらい、虜にする。これはお膳立てが前面にある。
これに浸ると本当に心地よく、ストレスから解放され、英気が養われる。最高な気分だ。
ただ、ここまでくると、やはり受身な部分が多くなると思う。日常からどうしても遠くなる。
文化は、少し乱暴だが、暮らしとも言い換えられると思う。文化の育み方を生み出してみたい。