体験。

辞書には、身(=体)をもって経験すること。その経験内容とある。
もちろん、経験は書物を通してでも、座学を通してでもできる。
でも、身をもって経験することで、その経験の自分へのインパクトが強くなる。
それが体験だ。受け身ではなく、能動的に入り込む。そんな感じの言葉だ。

体験には、日常性を感じない。つまりは非日常なのだ。驚きが欲しいのだと思う。
仮に1週間の体験だったとしても、日々体験を重ねる間、ずっと驚きの連続だ。
一方、一つの体験を繰り返し行い、身につけるときは体験ではなく鍛錬だ。
鍛錬にはある意味終わりはなく、突き詰めることで新たな境地に到達できるのだと思う。

体験とは、初めてのことと言い換えても良いかもしれない。一番衝撃が強い。
2回目3回目では衝撃はない。心が揺さぶられる幅が減るのだ。予測できないのがいい。
故に体験は難しいのだ。世の中には色々な刺激がある。新たな体験がある。
多少のことでは驚かない人をどれだけ驚かせるか。体験とはそんな勝負かもしれない。

50年前は刺激が少なかった。幼い時代にみた景色はまさに驚きの連続だった。
それから色々な体験をしてきた。その上を行って、驚かせるのはどんどん大変になる。
海外など文化が異なる人を驚かせるのは比較的容易だ。違いが新鮮だからだ。
超富裕層が素朴を見た時感動する。これは素朴の中に美しさを見出した時に起こることだと思う。

世の中にある体験は多様で、受け身な体験から没入型の体験へと深くなりつつある。
それだけ、単純な体験は当たり前になってきているのだ。没入すると五感で情報のシャワーを浴びる。
なにもない静寂な空間も没入しやすい。張り詰めた空気の中、自分の存在を意識する。
体験は人の驚きへの飽くなき追求なのかもしれない。常に新種が生み出される。まだまだ体験したい。