無意識と経験。

例えば運転している時、曲がる際には自然とウィンカーレバーに手が伸びる。
ナビに従って、ここを左に曲がろう。ここまでは、意識しているがレバーは意識しない。
曲がろうという意識の中に、一連の動作がセットとなって定義されているのだろうか。
これは車の運転でも、バイクの運転でも同じだ。レバーの形が違うだけだと思う。

でも、車の場合は一連の動作の中に、ウィンカーレバーを戻すという動作は入っていない。
車線変更の場合を除いては、レバーは曲がり終わると勝手に戻ってくれるからだ。
バイクは違う。レバーを手動で戻さないといけない。一連の動作以外のことが必要になる。
それが故に、車乗りのバイクの場合はウィンカーを出しっぱなしの状態をよくみるのだ。

はっと気づいて、レバーを戻す。スムーズな交通を妨げてはいけないと意識するからだ。
何度やっても、またどこかでやっている自分がいる。無意識にパターンを持つのは難しいのだろうか。
一連の作業というのはプログラムで、この入力があったらこうやれというものだろうか。
であれば、条件分岐さえ意識できれば問題なく、意識的に別のことをできるはずだ。

振り返ると、確かにバイクでもしっかりと無意識にレバーを戻している時もある。
車の車線変更でも同じだ。ということは、一連の動作はいくつも定義できるということだ。
曲がろうという意識とバイクや車線変更という条件を注意深く意識したかで結果が決まる感じだろう。
失敗は意識の強さがあるレベル以下になると起きる。つまりある確率で失敗が起きることになる。

そうなると経験量とはどのくらい多くの一連の動作を持っているかで決まっているのだろう。
現実の世界では、様々な条件分岐が存在していて、どの一連の動作を使うかを瞬時に選択している。
どれにも当てはまらない時に、意識的に新しい一連の動作を作っている。そう考えることもできる。
見様見真似、もしくは試行錯誤で生み出すのだ。行動はこうして生まれる。では感情はどうだろうか。