ゆとりと羅針盤が生きた文化をつくる。

最近、色々な地域の文化についての資料を読んでいる。日本は多様だと改めて思う。
生活の中から生まれた産品が、特産品として地域内外に広く流通する。富が生まれる。
生まれた富を使って、地域内で娯楽が生まれ、楽しみ始める。その噂が広まる。
来訪者が増え、地域に賑わいが溢れ、観光業が栄える。富がさらに大きくなる。

このパターンが多い気がする。もう1つは、一人ひとりの熱量が束になるパターンだ。
それぞれの人が持つ少しばかりの余裕を持続的にあるものや活動に注ぎ込んでいく。
決して裕福ではないが、生きていくための支えや拠り所になっていることが多い。
宗教や風習といったものだろうか。生活の一部となって、代々受け継がれていく。

共通するのは、ゆとりだと思う。前者は生まれたゆとりを、ある意味派手に活用している。
後者は、小さなゆとりを大事に育んでいる感じだ。ゆとりのある暮らしの証といっても良い。
自分の時間やお金やもののうち、前者はお金を中心に、後者は時間を中心に投資をしている。
故に、前者の文化は見た目の派手さがある一方、後者の文化は理解するのに深い関わりがいる。

ただ、バランスは様々だが、どの地域でも両方のパターンが混在しているように思う。
その土地で持続的にかけてこられた時間やお金やものが、組み合わさり、束になって文化となる。
誰かが意思を持って組み合わせたというよりも、自然と束になってきたのだろうか。
投資のベクトルがあっているほど、投資の数や額が多いほど、文化のスケールは大きくなるのだろう。

一つ気づいた。文化は育むこと、育み続けることが大事だと思う。言い換えれば投資を続けることだ。
過去の文化を学ぶだけではなく、生きた文化にすべく自らが動くこと、自らの日常に組み込むことだ。
現代はネットもあり、遠隔の人ともつながれる一方、ゆとりの投資対象の選択肢もひろがっている。
ゆとりを投資して生きた文化に仕立てるには、みんなが目指す羅針盤を示すことが大事だと思う。