同じ釜の飯

同じ共同体が同じものを食べることによって、同体としての帰属意識を持つこと、強化すること。
他人同士ではあるが、いっしょに暮らして苦楽をともにすること。同じ釜の飯はそんな意味だ。
「食べる」ということが、栄養を摂取するという行為を超えて、「つなぐ」役割を持っている。
一緒に食事の準備をする。ゆったりとした気持ちになり語り合う。そんなシーンが目に浮かぶ。

そんなシーンからはお互いを気遣う、運命を共にしているような一体感や強いきずなを感じる。
譲り合いの精神はもちろん、お互いを自然と慮る姿に、憧れに似た気持ちさえ生まれてくる。
今の世の中のあちらこちらにも、こうしたきずなで結ばれた信頼関係はたくさんあると思う。
コミュニケーションの手段が増え、リーチも長くなってきたので、むしろ増えているはずだ。

SNSやデジタルによって、共同体の数は増え、一緒に飯は食べずとも、対話を日々行なっている。
リアルな感覚とは少し異なるかもしれないが、別のつながり、頻度の高いつながりが沢山ある。
全人格に近い形のつながりでなくとも、共感できる部分でのつながりも簡単にできるようになった。
しかも地理的な制約も全くない。地球の中で、かつネットがあるならば、国を跨いでもいい。

だいぶスケールは大きくなった。この数十年つながりの総量は何桁も大きくなってきたのだと思う。
小さな共同体が沢山できる事によって、それらが重なる事によってスケールは大きくなってきた。
次第に「同じ釜の飯」という感覚から、「同じ地球の空気」という感覚になってきたと感じている。
特に、コロナ禍では空気を意識するようになった。ウィルスで汚染された空気を日々感じている。

温暖化防止、SDGsという人類共通の目標からも「同じ地球の空気」という感覚を強く感じる。
小さな共同体がいい状態に保たれることに留まらず、それらの重なりも含めて良くしていく感覚だ。
小さな共同体から大きな共同体、地球規模に視野を広げる。共通の目標に照らして見てみる。
本質的に大事なことでつながりを育みたい。地球の空気を釜の飯と感じる仲間を増やしていきたい。