多様で自由な世界

未来の社会の姿を考えることがある。まず頭に思い浮かんだのは「多様で自由」という言葉だ。
自分の思う自由と他の人の思う自由は異なる。判断はこれまで生きてきた環境に大きく左右される。
国が違えば、食べ物も違う、住むところも違う。日々の暮らしも習慣も違う。自由の前提が違う。
だから、多様な暮らしを経験しなければ、なかなか多様で自由な世界を思い描くことはできない。

もちろん、自由といってもなんでもして良いわけではない。道徳に則った行動が求められる。
道徳とは、社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準の総体と定義されている。
社会に対立や争いの種を溜め続けないためには道徳は不可欠だ。自由同士をぶつけ続けない仕掛けだ。
とはいえ、自分の思う自由のどこが相手の自由とぶつかるのかは、経験しなければわからない。

できることは、生活の中で試すことだ。そして周囲の反応を観察することだ。これまでもしてきた。
「変わっている」はいい。許容できる感じだ。「嫌だ」はまずい。放っておくと争いの種になる。
自由がぶつからない距離まで離れることが大事だ。ただ最近はSNSが距離という概念を消滅させる。
嫌なものから離れる自由が失われている。それどころか追いかけられて離れられないことすらある。

自由を出すのを躊躇する世界ではなく、その時々で範囲をうまく作って自由を満喫する世界がいい。
その世界では、自由を満喫している人と、「変わっている」を楽しんでいる人がいる。
嫌だと思う人は、その世界が存在している間は、常に外にいればいい。間違えて入ったらすぐに出る。
同時にたくさんの世界があるから、自分の好きな別の自由の世界を選んで、その中に入ればいい。

大事なことは、自分の思う自由の世界を持つこと。1つでもたくさんでもいい。その中にいること。
その際、交わると反発しそうな自由を、離しておく工夫が必要な気がする。互いに侵食しない仕掛けだ。
マインドは、批判ではなく、楽しむか、眺めるか、離れるだ。自分の常識と違うことを許容する。
でも最後は道徳に行き着く。いま世界が目標としているSDGsは多様性の中で守るべき道徳だと思う。