常識を持たない生き方

ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。これが常識の意味だ。
遥か昔であれば、国境があり、人の往来も少なく、其々の場所で、社会、そして常識も閉じていた。
よって、常識とは場所に紐づいた概念だったと思う。でも、今は人の往来がたくさんある。
コロナ禍で制限されているので物理的な移動は減ったが、情報の往来は国を跨いで無数にある。

もはや、其々の社会の常識は入り混じっている。もしくは常に変化していると言って良いだろう。
場所ごとに違う部分や名残りはあっても、それぞれの場所で同じ部分を探し出すこともできる。
国連のSDGsなどはまさに共通部分だ。世界の常識として持つべき最低限の考え方を提示している。
常識と言われる範囲が、ある意味狭まって、本質的に重要な部分のみが共有されていく世界になる。

昔から新聞や書籍をあまり読む方ではなかった。歴史や文化も少しは触れてはいたが知識は少ない。
ネットが普及してからは、自分の思いついたことを世の中の人がどう感じているかは調べている。
でも、定期的に何かを読み続けるとか、広く認知されたものを理解したいという感覚はあまりない。
極端に言えば、みんな考えや感覚は違うから、各人の常識はおそらく違うだろう程度に思っていた。

今は多様性の時代だ。この時代では、どんな立場同士でも互いを認め合う。違いを楽しむのが良い。
つまり、これまでの常識、つまり「当然持っているはずの知識や概念」は無くても良いと感じる。
もしくは、人や地球に優しいというみんなで本質的に共感できる概念だけが常識なのだと思う。
それ以外の日常の様々な習慣などは、其々が好き嫌いを持っていればよいのだ。常識から除外する。

常識も持たない生き方。本質的に共感できる概念を常識にして、それ以外は違いを楽しむ生き方だ。
繰り返しになるが、人や地球に優しくあれば、好き嫌いはあっても良い。あるのが当然だと思う。
その好き嫌いも含めて、認め合うことが大事だ。「へー、そんな考え方もあるんだ。新しい!」
こんな対話や出会いを増やしていく。そうしたらもっと多様性が当たり前の世界になると思う。