俯瞰力。

もしかしたら、常識とも似た部分がある言葉かもしれないと、ふと思った。
常識はこれまで生きてきた生活や学びの中で培われた良い悪いの考え方のようなもの。
育った環境や国が違えば、明らかに常識は異なる。見えている世界が違うからだ。
自由奔放な学校や家庭で育つのと、規律正しい学校や家庭で育つのでは、明らかに違うだろう。

でも、これらが両立する場合もある。規律以外の部分では自由奔放で生きることもあるからだ。
おそらく、規律の領域が狭いもしくは自由奔放の領域が広い場合に起きると思う。
そうだ。常識にも対象としている領域の広さがある。故に、同じ自由奔放でも常識が異なるのだ。
これは視野の広さと少し似てないだろうか。常識も視野も広いと、その人の奥行きを感じる。

では奥行きはなぜ感じるのだろうか。おそらく、その人にこちらから見通せないことがあるからだ。
自分の常識を超えた何かがある。様々な観点からものを考えている。こんな感じだろう。
逆に、こちらの常識や観点が相手にまったく通じずに困ることはないだろうか。
これは自分の常識や観点を、相手が不思議に思っている。全く重なりがないという状態だ。

奥行きを感じる場合はそれが何かが明確でなくても前に進める感じはする。重なりがあるからだ。
一方で、全く重なりがないと、拒絶となり、歩みが止まることが多い。相互理解が進まない。
でも、対話をするたびに実は、どんな対話でも、少しずつ常識や観点が広がっている。
相互に影響を受けているのだ。もし、少し領域の線引きを緩めたらどうなるだろうか。

常識や視野の広がりのスピードが速くなる。つまりは多様性への理解が進むのだと思う。
もし、みんなが線引きを緩めたら、多様性がそれぞれの人の中に増殖していくのだと思う。
毎日が新鮮で、社会での相互理解が進むのだ。それぞれの人の俯瞰力が上がった状態だ。
これまでは一点突破が多かったかもしれない。これからは俯瞰力を高めてはどうだろうか。