何をするにしても失敗はしたくない。誰だってそうありたいと考えていると思う。
もちろん、失敗を糧にして次に活かせば良い。その感覚も分かるは分かる。
でも、大失敗は堪える。ましてや常識から外れたものをやっての失敗は辛い。
失敗するのが分かっているのに何故やったのかという声が聞こえてくる気がする。
なんとなく、こんな感覚が社会に充満しているような気がする。だから挑戦に躊躇する。
出る杭は打たれるということわざがあるように、あまり目立ったことはよくないという考えもある。
常に正解は何かを学び、その正解をなぞる形で意思決定をしていく。石橋を叩いて渡っている。
これにより大きく外れたことがなく、調和のある社会が作れてきた。でも歪みも増えてきたと思う。
多様性が大事だと、相互に尊重し合おう。これもよく分かる。新しい調和の形を模索している。
新たな正解を定義しようと社会が動いているのだ。でも今回は少し大変だ。多様だからだ。
答えを用意するにも、すべての組み合わせを考えたら、どのくらいのパターンがあるのだろうか。
人の気持ちという移ろいやすいものが対象なのだから、本当に正解は定義できるのだろうか。
やはり、そろそろ対話を通じて、そのタイミングでの正解を都度作っていく形にするのが良いと思う。
正解を覚えるのではなく、都度、探りを入れて、正解らしきものをぶつけて、反応を見る。
反応を踏まえて、その時の正解をその場で作ればいいのだと思う。小さな失敗をしながら。
その際、自分の常識を傍へおいておける余裕を持ちたい。他の人には別の常識があるからだ。
これは一方的に相手に合わせるのではない。こちらの常識に相手の常識を加えて考えるのだ。
自分の中で拠り所にする常識は何故それが大事なのかを見極める。相手の常識も同様だ。
そうすると、それぞれが大事なものが見えてくる。それらを全部包含したものが新たな常識だ。
もしかしたら、人として意外と本質的なことが残るのではないだろうか。多様性は単純かもしれない。