ずっと考え続ける

長閑な観光地のモビリティが不採算で撤退した。理由が「全く使われてない」なら問題はない。
それなりの稼働だが、収益の取れる値段設定が上手くいかなかった場合はとても難しい。
モビリティ自体の原価低減が間に合えば、同じ値段での事業継続の可能性は生まれる。
あまりコストを掛けずに、新たな付加価値を足して単価を上げられるなら可能性は残る。

そうでなければ、撤退しかない。でも、撤退すればそれがないことの不便が生まれてしまう。
撤退までに活用した人々が享受した喜びは今後、なくなってしまうのだ。なんとも勿体ない。
町では緊急会議が開かれる。撤退したモビリティに代わるモビリティの準備がテーマだ。
まずは撤退モビリティの成果や課題の棚卸しが行われ、次のモビリティの要件を考える。

稼働を上げるには、全天候型がいい。できたら1-2人ではなく、グループで乗れる方がいいのでは。
こんな会話が続く。だんだん巡回バスに近づいた発想になる。ドライバーの準備がいる。
本当にそれでいいのだろうか。自分で運転してどこへでも行けるという気軽さはなくなる。
そもそもグループで乗れるモビリティのコストは高いのではないか。人数割をすれば安いのか。

そうだとしても、6人グループは使うが、3人グループは使わない。本当に稼働はあがるのか。
バスではなく、グループの誰かが運転すればいい。でも公道を走るなら、慣れもいるかもしれない。
であれば、いっそカーシェアでいいのではないか。会員であれば、スマホをかざすだけだ。
あ、でも風を感じながら移動する爽快感は無くなる。それから速く移動することは目的でないと思う。

本来の目的はなんだろうか。長閑な観光地。沢山の人が訪れ、ゆったりとゆっくりと回る。
これを実現するモビリティがいるのではないだろうか。雨が降ったら別の楽しみ方がいい気がする。
濡れない室内のスペースで楽しめることをやった方がいい。そこへの移動は巡回バスがいい。
課題解決も大事だが、本質に立ち返る。本質の実現のために考え抜く。この方が未来が広がると思う。