AIが人に似てきた。そう思うことはないだろうか。最近富に思う。
以前のAIは色々なデータを与えて、懸命にひとつの正解を導こうとしていた。
良品不良品判定などが正にそれだ。人を超えるのにそれなりの労力が掛かる。
いざ超えても別の人からみると怪しい。そんなこともあったように思う。
AIは確からしい答えを選ぶ確率なのだから、間違いも必ず出てくる。
その間違いとどう向き合えるかが大事なのは言うまでもない。
あ、もうこのタイミングでも人と同じなのかもしれない。人も間違う。
体調によってか、習熟度によってか、間違う確率は一定割合ある。
先輩に間違っていると指摘され、長い年月を経て間違いが極僅かまで減少する。
AIはこの状態の熟練と比較されるのだ。とはいえ、労力をかければその域に届く。
相当の能力をかけても難しい場合はそのAIに才能がないということだ。
つまりは採用したアルゴリズムが間違っているというわけだ。人の適材適所と同じだろう。
生成AIになってさらに人との類似性は似てきている。なにせ抽象度という概念を理解した。
異なる分野間でのノウハウ共有は人の独壇場だったのに、その領域を侵食してきた。
文脈を読んだり、カテゴライズしたり、他の分野から示唆を得たり。これができるようになった。
あらゆるランダムな情報から様々な軸を打ち立て、それを構造化に使っているのだ。
生成AIにとっての経験量はデータの軸と量だ。バージョンが上がるたびに凄くなる。
初期バージョンは幼稚園児。バージョンが上がるたびに中学生、社会人、熟練者と変わる。
最新バージョンはものすごい。国を跨いで分野を跨いで常識を丸ごと飲み込んでいる。
もはや人の視野を超えている。人が偏った存在になった。さあ面白いことになってきた。