知恵と知識

先日、機械学習の講座を聴講した。プログラムがわかりやすかったのもあるが、本当に便利になった。
自分のやりたいことをしっかりと持っていさえすれば、瞬く間にそれを実現する事ができる。
ライブラリーという色々な人が編み出した機能を、好きに取り出して使う事ができるからだ。
機能が違ってもそれを呼び出す動作はまったく一緒で、操作を覚えることもわずかだ。

事前に一連の機能の種類をなんとなく触っておけば、身の回りでいくらでも機械学習を試せる。
パラメータの設定が少し分からなくても、ネットで瞬時に調べることもできる。なんか凄すぎる。
30年前であれば全く考えられなかったことだ。プログラムをやってくれる助手が沢山いる感じだ。
巷で高付加価値業務に集中する。こんな話をよく聞くが、まさにそれを実現できるツールだと思う。

知識は学べる。ライブラリーにどんな種類があるか、パラメータはどう使うか。これらも知識だ。
誰かがこれまでに創り出したもの、体験したものを、誰かが書き留めてくれてたものだ。
インターネットが普及して、コンピュータパワーが上がって、知識へのアクセスが劇的に良くなった。
知識はどんどん共有して、色々な知識の組み合わせで新たな価値を生み出して欲しいと思う。

一方、知恵は学ぶものではない。知識として成り立つずっと前に、誰かによって生み出されたものだ。
知識と違って、正しいか、正しくないか、どんな時に役立つかなどは、最初はかなりあやふやだ。
知恵の多くは、その時の常識とは異なるもの、異なる解釈を含んでいるので当然だ。
調べても出てこない。仮に誰かが同じことを考えていても、常識の多くに埋もれている事が多い。

知識は新たな知恵を生み出すためにある。かなり以前からそう思っている。信じてきた。
ただ、やみくもに知識をつけていけば、新たな知恵を生み出せるかといったら、そうではない。
常に、本質的に重要なことを、視野を社会に広げて捉えてみることが大事だと思う。
生み出したい新たな価値を妄想する、社会実装する。これが知恵であり、生むには知識が必要だ。