総量を見る第三者になる

企画や営業・マーケティングなどの事務系の現場では、日々資料を作っている。
作成の目的は、考えていることの共有だ。相手が社内の場合や社外の顧客やパートナーの場合もある。
与えられたタスクもしくは自らがやるべきと感じたタスクのその時点での進捗や成果を伝える。
でも、楽しいと思いながら筆が進んで資料を作る人と、面倒と思いながら作る人がいる気がする。

状況としては、平日の勤務時間中に作っていることを前提にする。休日の資料づくりではない。
作り手の楽しい、辛いの心持ちの違いはなんだろうか。仕事の内容か、それとも上司の指示だろうか。
タスクに纏わる状況は様々だ。勝手に設定されたもの、自分には大変と感じるもの。どちらも辛い。
でも、一番の違いは、そのタスクを成し遂げた時に生み出される姿にワクワクするかどうかだと思う。

こんな資料を作ってもなんの意味があるのかわからない。辛い。こんな言葉を聞くことがある。
資料によって何かが変わることがない。人も組織も社会にも何も変化がないと感じているからだ。
人はやはり、せっかく時間を使って作ったものが何かの役に立って欲しい思っている。
自分の考えたことで、なんらかの変化を生み出したいと考えている。そこに届かないから辛いのだ。

楽しく資料を作っている時は、自分の考えがどんどん湧いている時だ。
自分の考えていることが、人、組織、社会の役に立っているシーンへと頭の中で変換されている。
その具体的なシーンから、この考えならいけると確信を持ち始めている。だから楽しい。
でも、いざ自分の資料をみんなに説明すると、伝わらずその確信が崩れることもある。なぜだろう。

辛い時も楽しい時も資料作りでうまく行かない場合の原因は、第三者の視点の不足だ。
意味がないと感じたタスクでも、それに関わる人を全て洗い出せば誰かを幸せにする案が作れる。
楽しくてもダメな時は、特定のことに深く入りすぎだ。そのことによって生まれる弊害にも目を配る。
どちらにも大事なのは、登場する人物全ての良い変化を足した総量が大きくなること。常に冷静に考えたい。