こんな作業は人がやらなくてもいい。人がやりたいと思う作業ではない。
世の中にはそうした作業がたくさんある。自動化できたら自動化したい。
でも、多くの場合は人が作業をしてしまった方が、安いという理由でなくならない。
要は、これまで自動化の経済合理性を生み出すことができなかったのだ。
それだけ人間の能力が優れているという捉え方もできるが、何かがおかしい。
例えば、最新鋭の装置で始めて実現した作業が、時給に換算すると1万円に相当するとしよう。
そこに、人間という「万能なモノ」がやってきて、それを時給8000円でやると言い出す。
その時、どうするだろうか。明らかに時給8000円の人間という「モノ」を取るだろう。
相対的にどちらが得かという判断がなされる。安ければ安い方がいいという結論だ。
もちろん、質が伴わない、メンテナンスなどで後からお金が掛かるならそれも損得に加える。
持続的に作業を続けた場合、持続的に作業をできるようにした場合にどうなるかが重要だ。
でも結果として、人間の方が相対的に安いという結論になってきたことが多い気がする。
ウェルビーイングから外れた状態を治すコストなどはカウントされないことが常だ。
健やかな状態で居続けることは、自己責任という感じになってしまっている。
ついつい人間については狭い範囲でコストを積算して、損得を判断してしまっている。
逆に機械に関しては、抜け漏れなく捉えている。だから人間の方が安くなる場合が多い。
これまで資本主義の中で、経済合理性という物差しを軸に、様々な意思決定をしてきた。
でも、人間のウェルビーイングには、十分に向き合ってこれなかったような気がする。
効率化を進めるという大義の中で、目をつぶってきたもの、蓋をしてきたものがたくさんある。
改めて、ウェルビーイングに向き合って、これまでの経済合理性と異なる尺度を持つべきだと思う。