感覚や反応や興奮を起こさせるのに必要な、最小の強度や刺激などの物理量。
これがある辞書における閾値の定義だ。理系の人間には親しみのある言葉だと思う。
最近、色々な場所で、賑わいづくりに携わっているが、常に感じるのがこの閾値だ。
いかに閾値を超えるか。これが達成できないと、社会に気づいてもらえない。
例えば、化学反応であれば、決まった閾値が存在していてそれを越えれば必ず起こる。
でも賑わいとなると、そうはいかない。賑わうかどうかは人の閾値が関わるからだ。
人はやっかいなことに、日々さまざまな刺激に晒されている。そしてそれに慣れていく。
人によって閾値は変わるし、人の閾値は総じてだんだん高くなっていくのだ。
しかも、類似の刺激はそこらじゅうにたくさんあるので、その中で目立つ必要がある。
化学反応のように絶対的なものではなく、相対的なものが関わってくるのだ。
さまざまな刺激の中で目立つ方法は2つくらいあると思う。一つは突き抜けるだ。
徹底的に絶対値を大きくして、確実に面白い、バズる。そんな感覚を周囲に生み出すことだ。
もう一つは、比較的目立っているものに便乗して、相乗効果を発揮するやり方だ。
これは連携して、一緒の塊の一つに見せることで実現できる。コンテンツの向きを揃える。
そうすれば、その塊の単位では周囲の中で際立つことができるようになる。
情報を受ける側は同じメッセージや同じ刺激を複数の方法で受け取れるので楽しさがグッと高まる。
ふと、人は常に刺激と感じる閾値がどんどん高くなってしまうのではないかと心配になる。
確かにそういう側面があるのは間違いない。でも、引き算が大事という感覚もある。
アートの世界などではよく使われると思う。複雑に組み合わさったものが蔓延している時に効く。
ゆとりとか、余白とか、落ち着く感覚を楽しめる。閾値のマネジメントを極めてみたい。