もう6年くらい前のこと、前職の時にふと浮かんだ造語だ。今後の社会で最も大事になると考えた。
毎日、様々なニュースがあるが、企業収益の話になると、効率化の成果ばかりが目についていた。
そんな中、効率化を続けると、どんどん社会が縮んでいくと、至極当たり前のことに気づいた。
人などのリソースを掛けずにこれまでと同じ価値を実現する。これが効率化の考え方だからだ。
多くの場合、効率化はスケールが物を言う。調達コストの削減、自動化などができるからだ。
どうしても、一人一人の創意工夫で成し遂げるというより、力技に近い主従の取引になりがちだ。
これだけの量をお願いするのだから、このくらい価格を下げてもらわないと。こんな会話だろう。
最終的には、顧客への価格を下げて、低価格を武器にした戦いでシェアを取り切るところまで続く。
気づいてみると、日本はある意味、消費者にとって暮らしやすい社会になった。何でも安く買える。
でも本当に暮らしやすいのか。買い物にはお金がいるが、一体どのくらいのお金を稼げているのか。
効率化を突き詰められた製品やサービス。それらを生み出しているのは給料をもらっている人だ。
そうした人達に効率化の大波が押し寄せてきた。マニュアルに沿った効率的な作業だけを求められる。
一人一人の創意工夫は減り、創意工夫がないのだから付加価値は上がらず、給料は低くて良いとなる。
こんな循環になってはいないだろうか。これでは消費者の購買力は下がり、「もっと安く」が求められる。
終いには、質を少しずつ落としながら、「誰にでも買える」を維持していくことになっていく。
これでは縮小しかしない。諦めや残念な気持ちが広がっていく。誰もこんな世界を望んではいない。
創造生産性を高めるとは、新たな価値を次々に生み出すことだ。同じ価値の効率化ではない。
より高く売れるもの、買い手が高い価値を感じてくれるものを生み出すことだ。市場を創る。
新たな価値は大きくても小さくても良い。確実に当たるとは限らない。だから沢山生み出したい。
活気のある社会は、消費者が創るのではない。新たな価値を生む供給者が創る。挑戦しよう。