進む速度。

年に何回かふと立ち止まる時がある。どこかで続いている疑問が湧いてくるからだ。
物事はどんなスピードで進めていくのが理想だろうか。そんな漠然とした問いだ。
普通に考えれば答えは簡単だ。物事が向かう先が正しいのであれば素早くだ。
いまが正しくないのであれば素早く正しく、もっと正しいがあるならそこへ素早くだ。

でも、ふと思う。そうした正しいが本当に正しいのだろうか。考えただけではないだろうか。
ただ、この疑問については意外と素早く解消される。いくら考えても100%はないからだ。
まずは正しいと思う、考えることをやってみる。そのあと、また考えればいい。こんな感じだ。
ならば、素早くやるに限る。そういう答えに辿り着く。進む速度は早い方がよいのだ。

実は、もう一つの疑問が湧く。これが結構厄介な疑問だ。究極に正しいはどのくらい先かだ。
これまでも歴史を振り返ると、正しいに向かって、寄り道をしながらも進んできたと思う。
明らかに生まれた時からみて、世の中は進化したし、正しい道を進んできたように感じる。
もちろん歪みもある。歪みをすべて解消できてはいないのは分かっている。でも進化してきた。

単純に自分の想像力が足りないからなら良いが、今後進化できる部分はどのくらいあるのだろうか。
素早く進んでしまったら、早晩ゴールについてしまうのではないだろうか。漠然として不安がある。
そこまで頑張って進化のスピードを上げなくても、良いのではないだろうか。最近は早すぎる。
ゆっくりとゴールまでの道のりを楽しんだほうが良い。そんな気持ちすら湧き上がってくる。

進む速度を上げると、その物事以外との関係が希薄になる。その物事だけを仕上げるからだ。
個別最適を生み続けてしまうのだろうか。全体のバランスは誰がとるのだろうか。
いまどきのAIは、答えを爆速で出す。でも、視野を広げたり、視座を上げ下げしたりは難しい。
抽象度の上げ下げもまだまだだ。いまは踊り場。そんな言葉も頭に浮かぶ。しっかりと考えてみたい。